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館長からのメッセージ


2017年度のはじまりにあたって(2017年4月)

ごあいさつ(2016年4月)

鎌倉からはじまった。(2015年4月)

風景の風景(2014年4月)

葉山館、開館10周年にあたって(2013年7月)

美術館は今日もたいへんです。(2012年4月)



2017年度のはじまりにあたって

2017年4月    神奈川県立近代美術館館長  水沢 勉

神奈川県立近代美術館は、現在、葉山館と鎌倉別館の2館体制で美術館活動を行っています。長年にわたり多くの方々から愛されてきた鎌倉館は、2016年3月末をもって閉館し、神奈川県から新しい所有者である鶴岡八幡宮に管理が委ねられることになりました。幸いなことに1951年開館当初の建物については鶴岡八幡宮境内に66年前とほぼ同じ姿で残され、去年の11月に神奈川県指定文化財に認定されています。
  2館体制での新たなスタートを切って1年が経ちました。その間に、鎌倉館にあった野外彫刻を葉山館に移設し、遊歩道を車椅子の方にも使用しやすいように舗道として整備いたしました。イサム・ノグチの代表作《コケシ》が鎌倉から葉山への中庭に移動したばかりでなく、その他8体の彫刻も葉山館の野外空間に移設され、鎌倉館喫茶室の壁面を飾っていた田中岑の大作《女の一生》も葉山館の講堂前のホワイエにやってきました。葉山館は、まさしく鎌倉の遺産を引き継ぎつつ大きく面目をいま改めつつあります。ぜひ庭の彫刻や壁画など新たな美術品の数々を皆様に味わっていただきたいと思います。
  鎌倉では、近代美術館として活動してきた半世紀以上の歩みそのものがその一部となっている「歴史」に、葉山では、美術館を包み込む豊かな「自然」に焦点を絞りながら、より一層充実した美術館活動を、それぞれの地域に密着しながら展開し、世界へと発信してゆく所存です。
  鎌倉別館につきましても今年度中に改修工事に着手いたします。2年後の2019年に、生まれ変わった姿で再出発する予定です。どうぞご期待ください。
  この秋11月、美術館は、66回目の誕生日を迎えます。2館体制としての2年目を迎え、「近代美術館」としての原点をしっかりこころに刻み、自分たちの足場を固め、歴史を見つめ、その成果を新たに学びほぐしつつ、未来に向けて進んでゆきたいと思います。

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ごあいさつ

2016年4月    神奈川県立近代美術館館長  水沢 勉

2016年度の美術館活動の開始に当たって、ひとことご挨拶申し上げます。
  2016年3月31日をもって、神奈川県立近代美術館の鎌倉館での活動は終了し、現在、最後の片付けと引っ越し作業を行なっています。1951年11月17日に開館して以来、「鎌倉」の顏として、その文化活動の一端を担ってきた鎌倉館がわたしたちの活動の拠点でなくなることはたいへん残念なことです。
  鎌倉館での活動の「原点」を確認する作業が、去年度の鎌倉館での3期にわたる通年企画「鎌倉からはじまった。1951-2016」展でした。幸い13万人を越える多くの来館者に恵まれました。それもただ回想するのではなく、次世代のひとたちにも多大の関心を持っていただけ、何十回も鎌倉館を訪れてくれる若者がやってきてくれたことも希望のひとつです。そうした熱い支持がなければ、一部(1951年竣工の旧館)とはいえ、鎌倉館の保存の道筋は見えてこなかったにちがいないからです。
  鎌倉館での記憶を蘇らせ、胸に刻み、それを日々生き生きと感じながら、前を向きたいと思います。
  葉山館は、イサム・ノグチの《こけし》(1951年)をはじめ、鎌倉館で皆さまに愛されつづけた野外彫刻を主として敷地内にお迎えします。この彫刻の移設にともなう教育普及的なイベントに傾注し、鎌倉館の精神とよりいっそう緊密に溶け合うことを目指します。
  もちろん、原田直次郎展のような日本近代美術を検証する本格的な回顧展にも全力を注ぎますが、今回から、主として鎌倉館・鎌倉別館で展開してきたコレクションの展示を葉山でもより積極的に取り組みます。夏には、もはやひとつの現代のレジェンドというべきパペット・アニメの巨匠クエイ兄弟の日本初の大規模な個展が全館を使用して開催されます。双子のアーティスト本人たちも葉山にやってくる予定です。秋のひかりに祝福される葉山での谷川晃一さんと宮迫千鶴さんの二人展「陽光礼賛」も、陰翳深い鎌倉とは一味も二味も違う葉山の環境にふさわしい展示となることでしょう。鎌倉館の出発の時代を振り返る「1950年代」にもスポットを当てる予定です。
  2016年度の当館の活動にどうぞご期待ください。

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鎌倉からはじまった。

2015年4月    神奈川県立近代美術館館長  水沢 勉

この4月からの一年間をもって、神奈川県と鶴岡八幡宮との間に結ばれている借地契約期間の満了により、当館の鎌倉館は、活動を停止し、閉館することになりました。わたし自身、1978年以来37年間、学芸の一員として働いてきたものとして、残念でなりませんが、最後にあたえられた時間をたいせつにして、この日本で最初の公立の近代美術館の建物である鎌倉館での活動とのお別れを皆さんと惜しみたいと思っています。
  鎌倉館では、今年4月から来年(2016年)1月末まで、三部構成の長期にわたる展覧会を開催いたします。開館の時点にさかのぼるように、現在から時間を逆回転させ、当館の60年以上にわたる長期間の美術館活動や所蔵品の全貌をご紹介いたします。
  その展覧会の全体タイトルをどうするか。
  ずいぶん考えあぐねました。もちろん、この事態は、当然数年前から予想されていたのですから、わたしが館長に就任した2011年4月には重要な課題として考えはじめていたのですが…
  とはいえ、それはちょうど東北大震災の直後であり、わたしの最初にかけた電話は、予定していたジョルジョ・モランディ展の中止に関する巡回各館との連絡調整のためのものであり、受信したメールのひとつは、ニューヨーク近代美術館所蔵のモホイ=ナジの代表作2点が梱包も終え、すぐにでも搬出できる状態でありながら、緊急理事会で日本への貸出中止になったことに関するものでした。美術館活動もまた、計画停電なども加わり、しばらくはかなりの混乱状態のなかにありました。そのことは、わたしのこのHPのこの欄に寄せた過去の文章からも読み取っていただけるのではないでしょうか。
  2013年に鎌倉が「武家の古都・鎌倉」として世界遺産登録を目指していたことも、鎌倉館に関してはいささか事情を複雑にしました。「武家の古都」という価値基準に照らすならば、1951年竣工の坂倉準三設計の名建築である鎌倉館旧館も「既存不適格建築物」とみなされてしまうのです。
  2013年、ユネスコの諮問委員会イコモスは、現存する物件では「武家の古都」としての証拠不十分として、鎌倉の世界遺産登録を見合わせました。これは、そのために努力し、期待していた関係者にとってとても残念な結果でした。でも、私は、そのとき、
  発想を逆転してみてはどうだろうか。
  と、考えてみたのです。そして、「既存不適格」とみなされた「建築物」こそが、新たな鎌倉のイメージのための象徴にならないだろうか、と自問しました。
  そのときようやくタイトルが、はじめはぼんやりとですが、徐々にはっきりと浮かんできました。
  「鎌倉からはじまった。1951-2016」
  「さようなら」「さらば」「グッドバイ」とお別れの言葉をかけるのではなく、この美術館に命を吹き込んできた尊敬すべき先輩たち、そして、美術を愛し、この美術館を支援してくれた方々と、その出発の意義をもう一度、展覧会というかたちで確認し、それを踏まえて未来を模索していきたいと考えたのです。
  そうです。近代美術館とわたしたちの付き合いは「鎌倉からはじまった。」のです。そしてその環境の豊かな歴史的伝統と混ざり合いながら、なにかが未来へと育まれようとしているのです。そこにこそ新たな価値の誕生を見届けてみたいのです。

〔以下、配布用の文章を再掲いたします〕

鎌倉館閉館にあたって
  
1951(昭和26)年11月17日、わたくしども神奈川県立近代美術館は、鎌倉市の中心部にある鶴岡八幡宮境内に開館いたしました。いまから65年に及ぼうという年月を遡る時代のことでした。
  15年間ものあいだ、中国大陸から太平洋へと拡大していった戦争、そして、沖縄戦、空襲、二度の原爆の投下という市民を巻き込む戦闘の末に、敗戦を迎えるという困難な時代を背景としています。そして、当館の誕生は、いまだ連合軍の占領下にあった1949年、県下の美術家や研究者たちと当時の知事が文化の復興のために美術館建設を目指し、「神奈川県美術家懇談会」を設立したことに端を発します。県下の候補地を検討するなかで鎌倉に土地を借地として提供を受けるという案が具体化し、20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに学んだ坂倉準三の設計による日本で最初の公立近代美術館が、大きな期待と歓迎の声に包まれ古都鎌倉の地に生れたのです。以来「鎌倉近美」の愛称で親しまれてまいりました。
  1966年には同じく坂倉準三の設計によって新館などが増築され、いよいよその活動の幅を広げ、美術館として成長を続けます。1984年に大髙正人の設計による鎌倉別館が完成。2003(平成15)年には相模湾にのぞむ一色海岸そばに葉山館(設計:佐藤総合計画)が開館しました。おもに展覧会活動を通じて形成されたコレクションは、日本近代美術を中心に西洋や近代中国の版画などを含め、日本の公立美術館のなかで有数の質と量を誇っています。
  このたび、まことに残念ながら、2016年1月31日、展覧会の最終日をもって「神奈川県近代美術館 鎌倉」の公開を終了し、3月末日をもって神奈川県立近代美術館は「鎌倉館」を閉館することになりました。2016年4月以降の美術館活動は、葉山館と鎌倉別館の二館体制に集約化されます。65年の長きにわたる各方面からのご愛顧に感謝するとともに、今後の活動に向けさらなるご理解とご協力をお願いする次第です。

2015年3月

館長  水沢 勉


〈神奈川県の基本的な考え方〉
鎌倉館は老朽化が顕著になっていますが、国史跡に指定された鶴岡八幡宮境内では、史跡にそぐうもの以外の現状変更が認められず、美術館として改修することが困難なことから、鶴岡八幡宮との借地契約が満了する平成28年3月末で、美術館としての活動は終了することとしております。



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風景の風景

2014年4月    神奈川県立近代美術館館長  水沢 勉

旅をしてその土地の博物館や美術館を訪れると思いがけぬ発見に出会い、ときに喜びや慰めをあたえられる。
  2011年3月11日の東日本大震災後、岩手県陸前高田市をわたしは二度訪れた。未曾有の規模の津波で破壊されたのはものやひとだけではなく、歴史を積み重ね生みだしてきた、ものとひととが織りなす風景でもある。被災前に一度だけわたしはやってきたことがあるが、そのときの風景の記憶もまた、破壊のあまりの凄絶さに、壊れ、すっかり薄らいでしまった。
  復興は復旧ではなく、その土地にあらたにもうひとつの風景を作りだすことであろう。「復興の風景」を含めた「風景」のヴィジョンが、その土地に暮らすひとびとがどれだけ共有できるかが問われる。それは、暮らしてきたひとびとの記憶とセットであり、いまを生きるひとびととさらには未来の生命へと連なっていかなければ、その土地の風景として生成させる、いや、それが苦しみつつ生まれ出ることもありえないであろう。
  そう書きながら、あらためて自分の無力さを思い知らされる。
  陸前高田を二度目に訪ねた2011年10月に、帰路、土沢の萬鉄五郎記念美術館を立ち寄った。美術館のそばに移築された萬家の土蔵は被災し、壁の一部が剥がれ落ちていた。とはいえ、町のひとたちはこの大惨事にめげることなく、町内各所で「まちかど美術館2011 アート@土澤」が元気いっぱいに開催されていた。会場のひとつである町なかの古い薬局。もう営業はしていなかったが、その壁には、陸前高田出身の画家・畠山三朗(1903-1933)が、昭和初期に描いた、小さな油彩の風景画が一枚飾られていた。その絵には自分がまさに直前にその場所に立っていた、プラットホームの一部を残してすっかりなにもかもが無くなってしまった、陸前高田の駅舎のあった中心街のあたりが、山側の高台から眺めた風景として、心地よいリズムを感じさせる筆触で瑞々しく描かれていた。80年ほど前、昭和初めには水田がそこに広がっていたことをその絵でわたしははじめて知った。
  また、去年、岩手県立美術館で、かつて陸前高田市立博物館のそば、その裏手の市民体育文化センター前に設置されていた柳原義達(1910-2004)の立像《岩頭の女》(1978年)が、台座の大きな石とともに津波に押し流され、ブロンズ製の像そのものは両足首のところで切断され、何か所かに裂け目が出来ていたのを修復し、二本のボルトの「義足」が接続されて、再び立っている姿に出会った。
  これらの作品はいつの日か陸前高田の町なかで飾られるのであろうか。
  いまはだれもその日がいつやってくるかを語ることはできない。しかし、それが展示された風景を思い描くとき、一面の廃墟の広がりなかに小さな灯りがいくつか点っていくようにわたしには感じられる。
  わたしたちはいま自然や文化との豊かな関係を失おうとしているのではなかろうか。ミューゼアム(博物館/美術館)という言葉は、ギリシャ語の「ムーサ」に由来する。文芸の女神であり、古代ギリシャの詩人ヘシオドスによれば、ゼウスとムネムシュネーのあいだに生まれた9人の娘たちであるとされている。ギリシャ語では複数形で「ムーサイ」と呼ぶことも多い。
  「ムーサ」という音に、母親の名前がこだまするように、まさしく「名残り」が感じられることはとても象徴的であろう。「ムネモシュネー」は、「記憶」を神格化した女神だからである。「記憶」の「記憶」。それらが響きあっていく。その継承がなければ、ミュージアムは誕生しなかったのではなかろうか。
  失われたものをすべて取り戻すことはできない。しかし、少なくとも、その「失われた」という事実を記憶のうちに留めることはできる。喪失の「風景」を抱き留める、新しい「風景」。「風景」の「風景」。それらが、さざ波だち、連なっていく。その起点、最初の一石にふさわしいものは、まさしく「ミュージアム」なのではなかろうか。
  1951年、敗戦後の荒廃から立ちあがろうというときに、日本に公立の最初の近代美術館として当館が、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内に誕生したことを想起しながら、わたしは、自然と文化がもう一度深くむすびつく可能性、その出発点のことを考えずにはいられない。

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葉山館、開館10周年にあたって

2013年7月    神奈川県立近代美術館館長  水沢 勉

当館の三つ目の建物が一色海岸に面した風光明媚な葉山の地に開館したのは、2003年10月11日のことでした。開館のその日は素晴らしい秋晴れに恵まれ、多くひとたちに祝福されました。まるで昨日のように記憶に鮮やかです。それが早いもので、本年(2013年)、10年という節目の年を迎えたことになります。
  どのような時代であれ、完全に平和なときというものは存在しなかったにちがいありません。
   世界全体を広く見渡せばどこかの地域は戦乱のさなかにあり、人間たちのあいだには、絶え間なく、友人間から国家間にいたるまで、大小のいがみあいが生まれつづけてきたからです。平和と戦争は、時間の概念ではなく、空間の概念である、と現代文明の限界を批判しつづけた偉大な思想家のひとりイヴァン・イリイチ(1926-2002)がかつて指摘したことの意味が、これほどまでに切実に感じられる10年間もあまりなかったのではないでしょうか。「平和な時代があった」ではなく、「平和な場所もあった」といわなければならないのです。
   戦乱の惨禍を思えば、その地域以外がどれほど平穏であっても、その渦中にあった当事者たちにとってそれは激動の時代にほかならなかった。平和であることを言い募るのはいつでも権力の側の視点であった。「Pax Romana(ローマの平和)」といい、あるいは「Pax Americana(アメリカの平和)」という、いかにも事大主義的なラテン語表現がまさしくそのことを証明している通りです。平和は地球の片隅にあって弱い立場の人々によっていつでも希求される対象であったのです。
   この10年もまた激動の時代でした。
   1989年のベルリンの壁崩壊以後、ソビエト連邦の解体を経て、イデオロギー対立の解消は、ほんのしばらくのあいだ、平和共存の新たな可能性を幻想させましたが、2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件は、高度に発達を遂げた資本主義と情報化社会が、格差社会を世界規模でますます助長していることを白日の下に晒しました。ウィーン世紀末の文学者のひとりシュテファン・ツヴァイク(1881-1942)が、ナチに追われ、若い妻とともに、絶望の果てにリオデジャネイロで自殺する以前、1940年に書きあげた回想文学の傑作『昨日の世界』は、ハプスブルク帝国の栄耀と没落をみごとに伝えています。そのなかで第一次世界大戦直前に、だれもが国境も意識することなく、たとえばザルツブルクとミュンヘンのひとたちが少しでも安くておいしいビールやワインを味わうために気軽に国境をおたがいに越えていたことを、懐かしく、しかし喪失の痛みとともに思い起こしています。
   わたしたちは通信技術の飛躍的進歩によって瞬時にして、たとえば、ナイジェリアのラゴスのひとと極東の日本で居ながらにして通信できるのに、分断と格差は一方で加速するばかりです。マリ共和国の文化財が軍部クーデターによる混乱のなかで破壊されたことは記憶に新しく、この数年間の最大の心痛む文化的ヴァンダリズムでした。サハラ砂漠に向かって北上していくときに、何度も検問での停止を強いられることは、いま世界がどれほど不自由であるかを物語っています。
   美術館は、そんなとき、なぜ必要なのでしょうか。
   答えは意外に簡単なのかもしれません。自由に、検問を受けずに(あるいはかいくぐって)、すぐれた造形表現に地域や世代をつないで出会うことのできる場。時間と空間の制約を限りなく越え出る可能性を宿したもの。そのためには持続性が必須条件でしょう。喪失の絶望に負けないために。
   鎌倉館、鎌倉別館、そして、葉山館の三館体制で運営をつづけてきた当館の置かれた状況は、不透明で、困難であることも覚悟したうえで、将来を見据えて進んでいきたいと思います。わたしたちのささやかな活動が、つぎの10年、そして、さらに10年と、途切れずにつづいていくように、ご理解とご支援をあらためてお願いする次第です。

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美術館は今日もたいへんです。

2012年4月    神奈川県立近代美術館館長  水沢 勉

 いまから10年以上前、まだ、葉山の美術館が出来ていなかったころのことです。
 わたしは、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内にある神奈川県立近代美術館(いま鎌倉館と呼ばれている建物です)に勤務していました。そのころちょうど開館50周年の節目を迎えました。それを記念して、求龍堂という本屋さんから『小さな箱』という本を学芸スタッフ総出で出版しました。いまもときどき手にとってめくることのある、鎌倉の近代美術館の「こしかたの記」ともいうべき内容の読みやすい本です。
 わたしはまだ40歳代でしたから、若気が残っていたのでしょう、本の帯のコピーをちょっと調子に乗ってこう書きました。
 「美術館は今日もたいへんだア!! 正式名称『神奈川県立近代美術館』。でも、みんなは愛情を込めて『鎌倉近美』としか呼ばない。そんな美術館が、鎌倉鶴岡八幡宮の境内にある。日本で最初の本格的な近代美術館。設計は天才的な建築家、坂倉準三。しかし、戦後復興のさなかに建てられた美術館の現実はキビシイ。ふりかかるいくつもの難題。館内に響く名物館長の怒号。奔走する館員たち。パティオ(中庭)を見上げれば夏の青空が目に痛い。イサム・ノグチの《こけし》に降り積む雪がやさしい。戦後の混乱から立ちあがった、額に汗する、日本最初の近代美術館の奮戦記。」
 あれから10年たった去年は、鎌倉近美の開館60周年の年であったのです。ひさしぶりに開館当初の写真を見つけて眺めたりしました。1951年10月頃、竣工直前に撮影されたものです。まだ周囲の外溝工事が終わっていないことが脇の方に土砂が積まれていることから分かります。

神奈川県立近代美術館 鎌倉館 竣工直前の1951年10月頃に撮影 撮影:村沢文雄





神奈川県立近代美術館 鎌倉館 竣工直前の1951年10月頃に撮影 撮影:村沢文雄


 なんという清楚で美しい建物でしょう。当時を知っている先輩学芸員のひとりが、開館まもないころ、はじめて鎌倉の美術館に来たとき、まぶしくてまぶしくてまっすぐに見ることができなかった、といっていたことを思い出します。これほどの建築が、戦後の荒廃、そして、占領下という時代に生まれたことを思うと、その奇跡に涙腺がついつい緩みそうになります。

神奈川県立近代美術館 葉山館 竣工から5年後の2008年2月に撮影 撮影:上野則宏





神奈川県立近代美術館 葉山館 竣工から5年後の2008年2月に撮影 撮影:上野則宏


 2003年に葉山の一色海岸のそばに葉山館が完成しました。ここの環境もすばらしい。写真は、葉山の空気が一番透明になる2月に相模湾の日没を中庭越しに遠望しているものです。葉山は鎌倉と違い半島の気象であることに、わたし自身、2000年から葉山の堀内に暮らすようになり日々、実感しています。この時期は風が強く、陽射しは穏やかなのに、体感温度はかなり低い。寒いのです。鎌倉も冷えますが、どこか湿潤なところがあり、風はあまり吹かず、陽だまりがあちこちにあります。

内藤礼 《恩寵》 2009(1999- )年 鎌倉館での展示を2010年3月に撮影






内藤礼 《恩寵》 2009(1999- )年 鎌倉館での展示を2010年3月に撮影


 この写真は、鎌倉での内藤礼展「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」(2009-2010年)の会期のおわり頃にわたしが撮影したものです。鎌倉の「陽だまり」が内藤さんの吊るされたビーズの縄跳びのようなフォルムを明るく浮かび上がらせています。この光が溜まっている感じは、同じ3月頃の葉山の一色海岸には求めようがありません。葉山では、空の底が抜けているといえばよいでしょうか。
 この写真を撮影してからほぼ一年後に「3.11」がやってきました。さいわい美術館は、ひとも、作品も、建物も被害はありませんでした。ただ、当初の計画には変更を余儀なくされました。被災地に比べれば、まったく軽微なものです。でも、こうした「喪失」もまた、いったい自分にとってなにがほんとうにたいせつなにかを問いかけるきっかけになりました。でも、突然、なにかが根こそぎなくなったような感覚に襲われ、ときどき思考回路が停止してしまいます。それを本能的に補おうとするのでしょうか、日常は、ひどく忙しく、せわしなくしていないと、かえって落ちつかない日々が続きました。
 そう、美術館は今日もたいへんです。とはいえ、バックヤードはどんなに繁忙を極めていても、美術館の会場はいつでも静かに、集中して作品鑑賞に沈潜できるように、わたしたちは全力を注いでいます。ぜひわたしたちの鎌倉と葉山の対照的な美術館を訪ねてきてください。
 2012年は、当館の原点を確認するために、写真家・石元泰博さんの1950年代の代表作の連作「桂」を鎌倉館で、日本近代美術の基本の基本ともいうべき洋画家・須田國太郎展を葉山館で、そして、葉山で前年度に開催した村山知義展を受けるかたちで、息子さんの児童文学者・村山亜土さんのテキストに寄せた作品を中心に、染色作家・柚木沙弥郎の新作を含む作品展を鎌倉別館で開催いたします。
 その後も、葉山館では、昭和前期を代表する洋画家のひとり、松本竣介の生誕100年を記念する大規模な回顧展、そして明治初期洋画の傑作である「二枚の西周(にしあまね)像」をめぐる近代洋画展を開きます。鎌倉館では、まさしくその誕生の年に結成された「実験工房」の展覧会を開催します。鎌倉別館では、柚木沙弥郎展に続けて、「古都鎌倉」という視点で選んだ所蔵品展、夭逝した特異な画家・小野元衛の全貌を初めて紹介する回顧展、そして、鎌倉館での実験工房展に合わせて当館所蔵の戦後期の優れた作品を紹介する「戦後の出発」展など、わたしたちの美術館活動の原点を見つめ直します。また、所蔵品からは、気谷誠氏が収集したユニークな版画コレクションを「鯰絵とボードレール」と題して鎌倉館で紹介し、秋にはシャガールとマチスの傑作版画を中心に、フランス近代美術の精華を鎌倉館で展示いたします。現代的な視点も忘れてはいません。大阪の国立民族学博物館が所蔵するアフリカのビーズを世界で初めてまとめて公開する葉山館での「ビーズ イン アフリカ」は、その現在の生活にまで脈々と生きるビーズの生命と現代性にこそ注目しています。また、葉山館全館をひとまとまりの作品として空間化する桑山忠明は、現在、日本を代表する世界的なアーティストのひとりです。鎌倉館での江口週展も、戦後の木彫が到達した表現の高みを改めて最新作も含めてわたしたちに確認させてくれるにちがいありません。
 どうぞご期待ください。

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