The Museum of Modern Art, Kamakura & Hayama

20世紀イギリス絵画を代表する画家ベン・ニコルソン(1894-1982)の本格的な回顧展を開催いたします。イギリス美術の伝統とヨーロッパ大陸の新たな潮流、あるいはイギリス南部の素朴な芸術など、さまざまな要素を取り入れ消化しつつ、自分自身の絵画を創造するに到ったニコルソンのきわめて味わい深い仕事を充分に振り返ろうというものです。

1936(ホワイトレリーフ)
©Angela Verren-Taunt/APG-Japan/JAA, Tokyo, 2003
 
   
展覧会構成

 Ⅰ  基礎の蓄積  ―  静物画と風景画  1919-30
 Ⅱ  絵画と彫刻のはざま  ―  パリ、ロンドン  1932-39
 Ⅲ  戦争と戦後  ―  キュビスム再訪  1939-59
 Ⅳ  巨石遺跡に匹敵するもの  ―  最後の開花  1960-74

 

ニコルソンの絵画は、風景画と静物画を中心にして展開されました。
しかしそれらは眼に見える対象をそのままに写すのとは違い、繊細な色調と魅惑的な線によって、ときに半ば抽象的になり、ときに風景や静物の本質に届く幾何学的な形態で表されています。
高名な画家だった父ウィリアム・ニコルソンの影響とその超克、ピカソやブラックのキュビスム、モンドリアンの新造形主義の感化、漁師でありながら素朴で力強い絵を描いたアルフレッド・ウォリスの発見、それらを通してニコルソンの芸術は形成されていきます。そして妻のバーバラ・ヘップワースやヘンリー・ムーアらとグループ〈ユニット・ワン〉を結成してイギリスの抽象芸術を推し進め、自らの絵画の方向を定めていったのです。
 
とくに第二次世界大戦前後に制作されたレリーフ絵画は、彼の生涯の後半期を決定的に性格づけるばかりでなく、抽象芸術の到達点を示して、20世紀後半の絵画を語るには忘れることができません。
半具象と抽象のあいだを行き来しながら、線の魅力と透明感あふれる色彩を湛えるその作品の数々は、どれもが見る人に深い印象を与えます。
本展覧会では、そうした絵画のなかから、ニコルソンの生涯にわたる代表的な作品約90点を網羅して、初期から晩年までの変遷と彼の画業の高みをたどります。



 
1基礎の蓄積―生物画と風景画―1919―30  
 
1919年以前の作品には、当時のイギリス絵画の特徴である17世紀オランダ・スペインの静物画からうけた影響がみられます。それは、克明な写実と荘厳な雰囲気を強調する父ウィリアムの絵画を踏襲しているともいえ、それ以降の作品にある革新的な性質は、まだあらわれていません。しかし静物画は、彼の生涯を通じて永続的なテーマとなっていきます。1920年にウィニフレッドと結婚し定期的にパリへ旅行するようになると、キュビスムの観察から学んだ手法やセザンヌの手法に影響をうけ、作風は写実から抽象へと変化していきました。

 
  2絵画と彫刻のはざま-パリ、ロンドン-1932‐39
 
1931-36(ギリシア風景)
©Angela Verren-Taunt/APG-Japan/JAA, Tokyo, 2003
  1932(サン・レミープロヴァンス)
©Angela Verren-Taunt/APG-Japan/JAA, Tokyo, 2003
 
       
     
1933(スペインの絵葉書のあるコラージュ)
©Angela Verren-Taunt/APG-Japan/JAA, Tokyo, 2003
     
1931年9月に、ニコルソンは、バーバラ・ヘップワースやヘンリー・ムーアの招きでノーフォーク海岸沿いにあるコテージを訪ねました。ヘップワースとの関係もこのころ始まりますが、特に彼女がニコルソンに与えた影響は大きく、数ヶ月のうちに、彼はそれまでの様式を捨てて、ブラックやピカソの作品により一層傾倒していくようになりました。物質性や画面の平坦さがより強調され、「パピエ・コレ(貼り紙)」の手法もとられます。またこのころ、ピカソをはじめ、ブランクーシやジャコメッティ、アルプ、モンドリアンらのアトリエを訪ねます。画面はより自由になり、様々な素材が使われるようになります。コラージュ作品からは、空間と時間のずれに対する関心や、平面やその高さのわずかな変化へのニコルソンの関心の高まりがみてとれるようになり、やがてその関心は最初のレリーフ制作に向けて展開していきました。

 
 
 
3戦争と戦後―キュビスム再訪―1939‐59  
 
   
  1952.6.4(テーブル形)
©Angela Verren-Taunt/APG-Japan/JAA, Tokyo, 2003
   

戦争が布告されると、ニコルソンとヘップワースは、その直前に訪れたコーンウォールにとどまることを決意します。戦時中は、作品写真や著作のアルバムをまとめながら、自身の仕事を振り返ることに多くを費やしました。戦後、彼は風景画と静物画という初期のテーマへ立ち戻っていきます。なかには静物画と風景画を結合したようなものもあります。これらすべての静物画において、ニコルソンの物体描写は一層抽象性を増し、その大半は相互に関連し合う物体と物体をつなぐ、リズミカルな輪郭線によって描き出されています。やがてニコルソンは、再びレリーフ彫刻への関心をよみがえらせ始めます。1948年にブルターニュを訪れた際に新石器時代の遺跡を見て回った経験は、非常に重要な印象をニコルソンにもたらしました。

1934(彩色レリーフ)
©Angela Verren-Taunt/APG-Japan/JAA, Tokyo, 2003
  1950.4(静物ーアベラールとエロイーズ)
©Angela Verren-Taunt/APG-Japan/JAA, Tokyo, 2003
  1947.11.11(マーゼル)
©Angela Verren-Taunt/APG-Japan/JAA, Tokyo, 2003
 
 
 
 
  4巨石遺跡に匹敵するもの―最後の開花―1960‐74
 
1966(ゼナー・コイト2)
©Angela Verren-Taunt/APG-Japan/JAA, Tokyo, 2003
 
   
   
スイスのティチーノに移住したことは、ニコルソンの芸術において大変意義深いことでした。1960年以降は静物画よりもレリーフを彫ることに彼は専念します。そのうちのいくつかはそれまでにないほどスケールが大きく、おそらく周囲の山岳風景にだけでなく、1950年代後半にヨーロッパ中を魅了した抽象表現主義の衝撃にも呼応したものでした。彼のレリーフは、ドルメン(巨石文化の遺跡)の追憶というに相応しく、地上の驚異への関心が新たなテーマとなってあらわれます。大地がたえず変化するように、あらわれた色彩は、固定することなく穏やかに変容を続けるかのようでした。


 
ベン・ニコルソン略歴  
 
1894年 4月10日、バッキンガムシャー州デナムに、画家夫妻ウィリアム・ニコルソンとメイベル・プライドの長男として生まれる。
1910年   ロンドン、スレード美術学校に入学。
1911年   スレード美術学校を退学。
1912年   フランスのトゥールでフランス語を習う。画家になる決心をする。
1914年   第一次世界大戦が始まるが喘息のため兵役を免除される。
1920年   画家ウィニフレッド・ロバーツと結婚。
1931年   彫刻家バーバラ・ヘップワースと一緒にアトリエを借り、生活を共にする。
1933年   ピカソ、ブラックと知り合う。フランスで結成された非具象主義グループ<アプストラクシオン=クレアシオン>のメンバーとなる。
1934年   パリのモンドリアンのアトリエを初めて訪問。<ユニット・ワン>の展覧会に出品。ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。
1936年   ニューヨーク近代美術館でアルフレッド・バー・ジュニア企画の「キュビスムと抽象美術展」に出品。
1937年   彫刻家ナウム・ガボ、建築家J.L.マーチンと『サークル―構成主義美術の国際的概観』を共同編集。
1938年   バーバラ・ヘップワースと結婚。
1944年   リーズ市立美術館で最初の回顧展開催。
1954年   ヴェネツィア・ビエンナーレで回顧展。ユリシーズ賞受賞。
1955年   東京都美術館の「第3回日本国際美術展」に出品。東京都知事賞を受賞。ロンドンのテート・ギャラリーで回顧展。
1956年   第1回グッゲンハイム国際絵画賞を受賞。
1957年   写真家フェリシタス・フォグラーと結婚。サンパウロ・ビエンナーレに出品。絵画部門国際賞を受賞。
1969年   ロンドンのテート・ギャラリーで2回目の回顧展。
1978年   バッファローのオルブライト=ノックス・アート・ギャラリーで回顧展。
1982年   2月6日、ロンドンにて没。
 
   

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