美術館について

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旧鎌倉館

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神奈川県立近代美術館は、日本で最初の公立近代美術館として、1951年に開館して以来、つねに美術館はどうあるべきかを考えながら国内での先導的な役割を担って活動してきました。時代と世界に向けて広い視野をもつこと、変化する社会の要請を見極めること、美術館が拠って立つ地域との結びつきを豊かにすること、歴史の中に今日的な課題を見出すこと、そして美術館の独自性と主体性を失わないこと。そうした事柄をいつも念頭において経験を積み、これからの活動を探っています。
2016年度からは、葉山館、鎌倉別館と略称している二つの建物でそれぞれ一年に数回の展覧会を開催しています。展覧会とならんでさまざまな教育普及活動のプログラムを組み、美術館を多様なかたちで楽しめるよう心がけています。美術館が誰にでも親しめ、快適な場所であり続けられるように、そのうえ、何かが発見できるところであるように、それが神奈川県立近代美術館の目指すところです。

館長からのメッセージ

モダニズムの楔(くさび)

2023年4月  神奈川県立近代美術館長  水沢 勉

葉山ゆかりの詩人は、と問われたなら、多くのひとは堀口大學(1892–1981)の名前を挙げるのではなかろうか。葉山町立図書館には「堀口大學文庫」がある。初期詩集の多くは日本近代を代表する版画家・長谷川潔(1891–1980)の装幀・挿画によるものであった。わたし自身、鎌倉で当館に就職したころ(1978)、二人とも存命であり、葉山と聞くと、すでに没していた日本画家・山口蓬春(1893–1971)とともにその顔がすぐに思い浮かんだ。
    しかし、忘れてはならない鮮烈な異才がいる。晩年を葉山の堀内で過ごした俳人・西東三鬼(1900–1962)である。
    最初の三人が同世代に属し、世紀転換期(明治末から大正初め)に芸術家として目覚め、その後名声を確立したのに対して、西東三鬼は、大戦間の複雑で困難な時代にその才能を開花させ、歴史に翻弄されることになる。自由律。そして無季語。「新興俳句」を掲げる前衛詩人であった。名作として知られる「水枕ガバリと寒い海がある」(1935)。「寒い海」が、病床で水枕の氷が動く音に刺激された妄想であって、季語としての制限をはるかに越えでている。
    第三次京大俳句事件(1940年8月)では、前衛ゆえに官憲に弾圧され検挙の憂き目にもあった。句作はいったん中断を余儀なくされたものの、独自の深化を密かに遂げ、1956 年に葉山の終の棲家に移ってからも創作は留まることはなかった。
    戦後まのあたりにした広島の惨状に着想されたという「広島や卵食ふ時口ひらく」(1947)は、被爆したひとたちの皮膚が原爆の熱で「ズルリと剝けた」(「サイレンを鳴らす話」初出『天狼』1959年12月号)情景を思い描き詠んだものと自作解説している。
    西東三鬼の詩人としての覚醒は、昭和前期のモダニズムのただなかで起こり、そこにはダダイズムの精神が宿っていた。モダニズムの楔ともいうべきものだ。殻を剝いた卵は、自分の口の大きさと重なる。全身に貫く戦慄。—この衝撃に呼応する美術表現はどのようなものか?そんな問いを西東三鬼の句はいまも発し続けている。

西東三鬼 森戸海岸にて、昭和36年または昭和37年 吉備路文学館蔵
西東三鬼 森戸海岸にて、昭和36年または昭和37年 吉備路文学館蔵

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