美術館について

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旧鎌倉館

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過去の館長メッセージ

モダニズムの楔(くさび)

2023年4月  神奈川県立近代美術館長  水沢 勉

葉山ゆかりの詩人は、と問われたなら、多くのひとは堀口大學(1892–1981)の名前を挙げるのではなかろうか。葉山町立図書館には「堀口大學文庫」がある。初期詩集の多くは日本近代を代表する版画家・長谷川潔(1891–1980)の装幀・挿画によるものであった。わたし自身、鎌倉で当館に就職したころ(1978)、二人とも存命であり、葉山と聞くと、すでに没していた日本画家・山口蓬春(1893–1971)とともにその顔がすぐに思い浮かんだ。
    しかし、忘れてはならない鮮烈な異才がいる。晩年を葉山の堀内で過ごした俳人・西東三鬼(1900–1962)である。
    最初の三人が同世代に属し、世紀転換期(明治末から大正初め)に芸術家として目覚め、その後名声を確立したのに対して、西東三鬼は、大戦間の複雑で困難な時代にその才能を開花させ、歴史に翻弄されることになる。自由律。そして無季語。「新興俳句」を掲げる前衛詩人であった。名作として知られる「水枕ガバリと寒い海がある」(1935)。「寒い海」が、病床で水枕の氷が動く音に刺激された妄想であって、季語としての制限をはるかに越えでている。
    第三次京大俳句事件(1940年8月)では、前衛ゆえに官憲に弾圧され検挙の憂き目にもあった。句作はいったん中断を余儀なくされたものの、独自の深化を密かに遂げ、1956 年に葉山の終の棲家に移ってからも創作は留まることはなかった。
    戦後まのあたりにした広島の惨状に着想されたという「広島や卵食ふ時口ひらく」(1947)は、被爆したひとたちの皮膚が原爆の熱で「ズルリと剝けた」(「サイレンを鳴らす話」初出『天狼』1959年12月号)情景を思い描き詠んだものと自作解説している。
    西東三鬼の詩人としての覚醒は、昭和前期のモダニズムのただなかで起こり、そこにはダダイズムの精神が宿っていた。モダニズムの楔ともいうべきものだ。殻を剝いた卵は、自分の口の大きさと重なる。全身に貫く戦慄。—この衝撃に呼応する美術表現はどのようなものか?そんな問いを西東三鬼の句はいまも発し続けている。

西東三鬼 森戸海岸にて、昭和36年または昭和37年 吉備路文学館蔵
西東三鬼 森戸海岸にて、昭和36年または昭和37年 吉備路文学館蔵

拈華微笑(ねんげみしょう)

2022年4月  神奈川県立近代美術館長  水沢 勉

仏陀シッダールタにまつわる有名な逸話である。「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる革新的な色彩表現を生みだした画家のひとり菱田春草(1874–1911)の代表作によってその場面を思い浮かべるひとも少なくないかもしれない。
   霊鷲山(りょうじゅせん)で説法に臨んだ仏陀は一言も口にすることなく一輪の花を手にして微笑みを浮かべた。だれもがとまどっていると弟子の摩訶迦葉(まかかしょう)ひとりがそのしぐさの意味を理解したとされ、仏陀の教えを後世に伝えることになった。
   すでに林棲期(りんせいき)にあったという摩訶迦葉は、画面右手に仏陀のそばに痩せた老人男性として描かれている。全体はいわゆる「不立文字(ふりゅうもんじ)」を絵画化している。言語を介することなく相互理解する禅(ぜん)の極意というべき場面である。とくに日本では南宋の禅僧・無門慧開(むもんえかい/1183–1260)の公案集『無門関(むもんかん)』の第六則「世尊拈花(せそんねんげ)」を通じて人口に膾炙することになった。仏陀が花を手にして微笑むという、その公案の奥深い真の理解とは別に、読者も思わず気持ちが和(なご)んでしまうような場面が想起されるのである。
   近代日本を代表する思想家・井筒俊彦(いづつ としひこ/1914–1993)は、1977年テヘランでの講演「対話と非対話—禅問答についての一考察—」(原文は英語)に関して、「彼方の対話 Beyond Dialogue」ではなく、「(対話の)彼方での対話 Beyond-Dialogue」 であることを強調するために半角ハイフン(-)という記号を加えて後年に補足説明している(『意識の本質—精神的東洋を求めて』岩波文庫、1983 年)。
   パンデミック、そして戦争。人類がなんども体験してきた負の現実にわたしたちはいまふたたび直面している。永遠の平和を希求するものにとっては、対立の論理だけを突き合わせるだけでは「Beyond Dialogue」に留まることになる。そこに小さな花のようにささやかな記号「-」を添えれば、暴力の「(対話の)彼方での対話 Beyond-Dialogue」がまるで「拈華微笑」のように緊張がそっとほどけ開始されるのではなかろうか。

  菱田春草《微笑図》(1907 年、東京国立博物館蔵)※1

※1 画像提供:東京国立博物館。研究情報アーカイブズ「東京国立博物館 画像検索」メニューより、画像番号C0007310の作品図版を切り出して掲載した。

川と商人と三人の王子の物語 セレンディピティについて

2021年4月  神奈川県立近代美術館長  水沢 勉

セレンディピティという言葉があります。スリランカの古名セレンディップに接尾辞をつけて抽象名詞化したもの。地名由来のために翻訳できません。あえて直訳すれば「セレンディップ的なこと」でしょうか。
    本庶佑氏が2018年にノーベル生理・医学賞を受賞されたときの記念講演のタイトルは「セレンディピティとしての獲得免疫 (Serendipities of acquired immunity)」でした。いま新型コロナウイルス蔓延の危機のさなか 3 年ぶりにその動画を視聴しました。
    免疫というものが人類史上いかに奇跡的な出来事であったかを改めて知りました。疫病に罹患し、回復したとき免疫が獲得されている――その仕組みを科学者たちは粘り強く探求してきたのです。
    そのとき、なぜセレンディップなのか、という疑問が浮かび、その理由を知りたくなりました。調べると「セレンディップの三人の王子様」という古い物語が存在することがわかりました。イスラム圏に流布しヨーロッパにも伝播した物語は、異聞も含めてさまざまなヴァージョンが存在します。そのなかでも洪水で川辺の邸宅ごと全財産を失った商人の物語はとりわけ心に残ります。
    商人はその川辺に偶々やってきた王子たちに涙ながらに惨事を語ります。すると王子たちは「悲運は幸運となる」と言い残して立ち去ります。時が過ぎ再び王子たちが川辺に戻ってみると、崖上に商人の邸宅は再建されています。商人に招待を受けた王子たちは、その間の顛末を聞かされます。商人は幼年時代、その川で水遊びに夢中になっていました。悲運に見舞われた商人に川はこう語ります。「うえをみてごらん」と。商人は残されたわずかの所持金で高台を整地し家を建てることにします。すると地中から貴石の鉱脈を発見するのです。
    一度は病気になることで獲得される免疫。悲運に打ちひしがれず前を向き、上を見あげた結果の僥倖。芸術との稀なる出会いの素晴らしさに重ねながらいま味わいたい物語です。

マグノリアの木

2020年4月  神奈川県立近代美術館長  水沢 勉

宮澤賢治に「マグノリアの木」と題された短篇がある。名作「注文の多い料理店」のような童話の筋立てはなく、むしろ白昼夢というべき幻想性の色濃い謎めいた掌篇である。
    主人公の諒安(りょうあん)は、仏教徒で、厳しい修行を積んでいる。山深い断崖を霧の中、転落しそうになりながらさらにその奥を目指す諒安。彼がついに出会ったのは、もうひとりの自分という存在である。ふたりのいる高原には白いマグノリアの樹花が咲いている。
    マグノリア。辛夷(こぶし)あるいは木蓮であろう。
    2003 年 10 月 11 日に葉山の一色海岸に面した絶景の地に葉山館がオープンした。「カマキン」の愛称で知られる鎌倉館は、そのときから「本館」ではなくなった。葉山館が美術館活動の機能としては中心的な拠点となった。
    個人的には 1999 年に葉山に暮らしの場を見つけた私にとっては、十数年後の鎌倉館閉館も視野に入れながら、鎌倉館への執着があまり感情的にならないように葉山の魅力を日々探すように心がけた。しかし、ある年の三月上旬、啓蟄の日の前後に、あることに気づいた。まだ寒気の残る鎌倉の谷戸の、やや翳った場所にほのかに白く発光するように咲くマグノリアの花が葉山にはあまり見あたらないのだ。
    おそらくときに強風となって春先に吹く潮風があまり辛夷や木蓮の樹にとってはありがたくないのかもしれない。その繊細な花弁は、確かに潮風は苦手そうである。
    葉山は海山の地形であり、海水浴や保養地として海の印象が強いものの、地名にも「山」があるとおり山がちの土地でもある。その山と海をつなぐ小道が、一色と呼ばれる美術館の周辺の一帯には細い水路のように張り巡らされている。
    そのひとつに「⾧雲閣こみち」がある。
    そこに大小二本のマグノリアの木があることに私はある日、気づいた。
    諒安がはじめて耳にした「その人」の声は、「けわしくも刻むこころの峯々にいま咲きそむるマグノリアかも。」と詠っていた。そして、「覚者の善」について諒安に語りかける。「氾濫」も「革命」も「飢饉」も「疫病」もすべて「善」であると断ずるのである。
    「マグノリアの木」は、「覚者」の隠喩(メタファー)であろう。さらにいうならば、それは時空を超えてわたしたちを宮澤賢治の時代、大正から昭和への移行する時期の困難と結びつける。そのとき、鎌倉と葉山は、まるで掌中に登場するマグノリアの花を賛美する「二人の子供」のような兄弟として感じられるのではなかろうか。

もやい結びということ

2019年4月  神奈川県立近代美術館長  水沢 勉

最近、「もやう」という言葉に親しみとなつかしさを感じるようになった。一般には「もやい結び」という言葉として使われることが多いかもしれない。漢字は「舫」。「う」を送り仮名とする。
  海の浅瀬に木杭がずらりと並ぶすがたは、江戸でも、ヴェネツィアでも、多くの画家たちが描いたように水都特有の情景であった。江戸は、眼前(江戸前)に広がる海の恵みに生かされたもっとも完成度の高い大都市のひとつであったが、明治維新を機に陸都に変貌し、名前も東京に変わった。
  ラグーンの魅惑は消え、埋め立てられ、陸上交通のほうが優先されるようになる。ナイジェリアのラゴスやバングラデシュのダッカが、本来の水都のすがたであることを、訪れるわたしたちは教えられる。
  20世紀半ばの1951年に鎌倉の鶴岡八幡宮の池畔に誕生した神奈川県立近代美術館は、2003年以降、相模湾に面する葉山館を本館としている。いうならば、水辺にもやっている舟のすがたをしているのである。
  「もやい結び」のたいせつな特徴のひとつは、しっかり結ぶと同時に、いざというときにすぐに解けることである。芸術の海は限りなく広く、ある一点だけに縛られているわけにはいかない。
  本年度の展覧会では、もっとも芸術の現在形を探求しつつある日本のアーティストたちと手を「結ぶ」とともに、過酷な歴史を体験してきたポーランドとフィンランドの表現者たちとも、その「もやい結び」をいったん解き、また結びたいと願っている。
  3年目を迎える共同プロジェクト「マルパ MULPA: Museum UnLearning Program for All(みんなで“まなびほぐす”美術館―社会を包む教育普及事業)」も従来の美術館を地域社会と結ぶとともに解き、また結ぶための試みであると考えている。
  どのように「結び knot」「解く unknot」のか……どうかご注目ください。

「近代」と呼ばれる鏡

2018年4月 神奈川県立近代美術館館長 水沢 勉

「春一番」という麗しい響きの言葉は、いつのまにかなにやら物騒な「爆弾低気圧」という表現に取って代わられてしまったようです。このところの異常気象が日常語にも大きな影響を及ぼしているのでしょう。
鎌倉と葉山という比較的な近い距離をおいて、現在二つの美術館をもつ神奈川県立近代美術館は、現在、鎌倉にある別館が本年度から本格的に改修に入ろうとしています。そんな矢先にやってきた「爆弾低気圧」でした。
それは鎌倉と葉山の気候の違いをまざまざと私たちに感じさせずにはおきません。
私自身、2000年以来、葉山の地に暮らしていることもあって(しかも、風早橋のそばで)、その春先の強風のすさまじさは、身をもってしばしば感じています。相模湾を渡ってきた風が轟轟と呻り声をあげながら遠くから迫ってくる。その恐ろしさは、横浜の郊外に暮らし、周囲を小高い岡に囲まれた鶴岡八幡宮境内の鎌倉の美術館に勤めていたときには(台風の季節をのぞいて)未知のものであったのです。
泉鏡花の名作『草迷宮』の冒頭は、その華麗な雅文体のために、まるで一幅の絵のように受け取れてしまいがちですが、長者ヶ崎から秋谷海岸にかけての大海原を荒波が吠え猛るさまを「根に寄る潮の玉を砕くは、日に黄金、月に白銀、あるいは怒り、あるいは殺す、鋭(と)き大自在の爪かと見ゆる。」と深い畏怖の念を込めて描写しています。
風光明媚と人々に褒め讃えられ、明治期にエルヴィン・ベルツ博士に健康増進の保養地として太鼓判を捺された葉山。そこには半島的というべき荒々しい生(き)のままの自然が息づいています。かたや無数の古刹や由緒ある神社によって惜しみなく象嵌を施された精緻な工芸品を思わせる鎌倉。
私たちの美術館は、「近代」という一つの鏡で、時間と空間の魔を宿すそれぞれの場所を照らしだし、そのことによって新しい文化的なブレンディングを目指す所存です。
2018年度の活動は、葉山を主とすることになりますが、鎌倉を忘れることなく、抱きあう二つの個性的な空間を磨きつづけます。

2017年度のはじまりにあたって

2017年4月 神奈川県立近代美術館館長 水沢 勉

神奈川県立近代美術館は、現在、葉山館と鎌倉別館の2館体制で美術館活動を行っています。長年にわたり多くの方々から愛されてきた鎌倉館は、2016年3月末をもって閉館し、神奈川県から新しい所有者である鶴岡八幡宮に管理が委ねられることになりました。幸いなことに1951年開館当初の建物については鶴岡八幡宮境内に66年前とほぼ同じ姿で残され、去年の11月に神奈川県指定文化財に認定されています。
2館体制での新たなスタートを切って1年が経ちました。その間に、鎌倉館にあった野外彫刻を葉山館に移設し、遊歩道を車椅子の方にも使用しやすいように舗道として整備いたしました。イサム・ノグチの代表作《コケシ》が鎌倉から葉山への中庭に移動したばかりでなく、その他8体の彫刻も葉山館の野外空間に移設され、鎌倉館喫茶室の壁面を飾っていた田中岑の大作《女の一生》も葉山館の講堂前のホワイエにやってきました。葉山館は、まさしく鎌倉の遺産を引き継ぎつつ大きく面目をいま改めつつあります。ぜひ庭の彫刻や壁画など新たな美術品の数々を皆様に味わっていただきたいと思います。
鎌倉では、近代美術館として活動してきた半世紀以上の歩みそのものがその一部となっている「歴史」に、葉山では、美術館を包み込む豊かな「自然」に焦点を絞りながら、より一層充実した美術館活動を、それぞれの地域に密着しながら展開し、世界へと発信してゆく所存です。
鎌倉別館につきましても今年度中に改修工事に着手いたします。2年後の2019年に、生まれ変わった姿で再出発する予定です。どうぞご期待ください。
この秋11月、美術館は、66回目の誕生日を迎えます。2館体制としての2年目を迎え、「近代美術館」としての原点をしっかりこころに刻み、自分たちの足場を固め、歴史を見つめ、その成果を新たに学びほぐしつつ、未来に向けて進んでゆきたいと思います。

ごあいさつ

2016年4月 神奈川県立近代美術館館長 水沢 勉

2016年度の美術館活動の開始に当たって、ひとことご挨拶申し上げます。
2016年3月31日をもって、神奈川県立近代美術館の鎌倉館での活動は終了し、現在、最後の片付けと引っ越し作業を行なっています。1951年11月17日に開館して以来、「鎌倉」の顏として、その文化活動の一端を担ってきた鎌倉館がわたしたちの活動の拠点でなくなることはたいへん残念なことです。
鎌倉館での活動の「原点」を確認する作業が、去年度の鎌倉館での3期にわたる通年企画「鎌倉からはじまった。1951-2016」展でした。幸い13万人を越える多くの来館者に恵まれました。それもただ回想するのではなく、次世代のひとたちにも多大の関心を持っていただけ、何十回も鎌倉館を訪れてくれる若者がやってきてくれたことも希望のひとつです。そうした熱い支持がなければ、一部(1951年竣工の旧館)とはいえ、鎌倉館の保存の道筋は見えてこなかったにちがいないからです。
鎌倉館での記憶を蘇らせ、胸に刻み、それを日々生き生きと感じながら、前を向きたいと思います。
葉山館は、イサム・ノグチの《こけし》(1951年)をはじめ、鎌倉館で皆さまに愛されつづけた野外彫刻を主として敷地内にお迎えします。この彫刻の移設にともなう教育普及的なイベントに傾注し、鎌倉館の精神とよりいっそう緊密に溶け合うことを目指します。
もちろん、原田直次郎展のような日本近代美術を検証する本格的な回顧展にも全力を注ぎますが、今回から、主として鎌倉館・鎌倉別館で展開してきたコレクションの展示を葉山でもより積極的に取り組みます。夏には、もはやひとつの現代のレジェンドというべきパペット・アニメの巨匠クエイ兄弟の日本初の大規模な個展が全館を使用して開催されます。双子のアーティスト本人たちも葉山にやってくる予定です。秋のひかりに祝福される葉山での谷川晃一さんと宮迫千鶴さんの二人展「陽光礼賛」も、陰翳深い鎌倉とは一味も二味も違う葉山の環境にふさわしい展示となることでしょう。鎌倉館の出発の時代を振り返る「1950年代」にもスポットを当てる予定です。
2016年度の当館の活動にどうぞご期待ください。

鎌倉からはじまった。

2015年4月 神奈川県立近代美術館館長 水沢 勉

この4月からの一年間をもって、神奈川県と鶴岡八幡宮との間に結ばれている借地契約期間の満了により、当館の鎌倉館は、活動を停止し、閉館することになりました。わたし自身、1978年以来37年間、学芸の一員として働いてきたものとして、残念でなりませんが、最後にあたえられた時間をたいせつにして、この日本で最初の公立の近代美術館の建物である鎌倉館での活動とのお別れを皆さんと惜しみたいと思っています。
鎌倉館では、今年4月から来年(2016年)1月末まで、三部構成の長期にわたる展覧会を開催いたします。開館の時点にさかのぼるように、現在から時間を逆回転させ、当館の60年以上にわたる長期間の美術館活動や所蔵品の全貌をご紹介いたします。
その展覧会の全体タイトルをどうするか。
ずいぶん考えあぐねました。もちろん、この事態は、当然数年前から予想されていたのですから、わたしが館長に就任した2011年4月には重要な課題として考えはじめていたのですが…
とはいえ、それはちょうど東北大震災の直後であり、わたしの最初にかけた電話は、予定していたジョルジョ・モランディ展の中止に関する巡回各館との連絡調整のためのものであり、受信したメールのひとつは、ニューヨーク近代美術館所蔵のモホイ=ナジの代表作2点が梱包も終え、すぐにでも搬出できる状態でありながら、緊急理事会で日本への貸出中止になったことに関するものでした。美術館活動もまた、計画停電なども加わり、しばらくはかなりの混乱状態のなかにありました。そのことは、わたしのこのHPのこの欄に寄せた過去の文章からも読み取っていただけるのではないでしょうか。
2013年に鎌倉が「武家の古都・鎌倉」として世界遺産登録を目指していたことも、鎌倉館に関してはいささか事情を複雑にしました。「武家の古都」という価値基準に照らすならば、1951年竣工の坂倉準三設計の名建築である鎌倉館旧館も「既存不適格建築物」とみなされてしまうのです。
2013年、ユネスコの諮問委員会イコモスは、現存する物件では「武家の古都」としての証拠不十分として、鎌倉の世界遺産登録を見合わせました。これは、そのために努力し、期待していた関係者にとってとても残念な結果でした。でも、私は、そのとき、
発想を逆転してみてはどうだろうか。
と、考えてみたのです。そして、「既存不適格」とみなされた「建築物」こそが、新たな鎌倉のイメージのための象徴にならないだろうか、と自問しました。
そのときようやくタイトルが、はじめはぼんやりとですが、徐々にはっきりと浮かんできました。
「鎌倉からはじまった。1951-2016」
「さようなら」「さらば」「グッドバイ」とお別れの言葉をかけるのではなく、この美術館に命を吹き込んできた尊敬すべき先輩たち、そして、美術を愛し、この美術館を支援してくれた方々と、その出発の意義をもう一度、展覧会というかたちで確認し、それを踏まえて未来を模索していきたいと考えたのです。
そうです。近代美術館とわたしたちの付き合いは「鎌倉からはじまった。」のです。そしてその環境の豊かな歴史的伝統と混ざり合いながら、なにかが未来へと育まれようとしているのです。そこにこそ新たな価値の誕生を見届けてみたいのです。

〔以下、配布用の文章を再掲いたします〕

鎌倉館閉館にあたって

1951(昭和26)年11月17日、わたくしども神奈川県立近代美術館は、鎌倉市の中心部にある鶴岡八幡宮境内に開館いたしました。いまから65年に及ぼうという年月を遡る時代のことでした。
15年間ものあいだ、中国大陸から太平洋へと拡大していった戦争、そして、沖縄戦、空襲、二度の原爆の投下という市民を巻き込む戦闘の末に、敗戦を迎えるという困難な時代を背景としています。そして、当館の誕生は、いまだ連合軍の占領下にあった1949年、県下の美術家や研究者たちと当時の知事が文化の復興のために美術館建設を目指し、「神奈川県美術家懇談会」を設立したことに端を発します。県下の候補地を検討するなかで鎌倉に土地を借地として提供を受けるという案が具体化し、20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに学んだ坂倉準三の設計による日本で最初の公立近代美術館が、大きな期待と歓迎の声に包まれ古都鎌倉の地に生れたのです。以来「鎌倉近美」の愛称で親しまれてまいりました。
1966年には同じく坂倉準三の設計によって新館などが増築され、いよいよその活動の幅を広げ、美術館として成長を続けます。1984年に大髙正人の設計による鎌倉別館が完成。2003(平成15)年には相模湾にのぞむ一色海岸そばに葉山館(設計:佐藤総合計画)が開館しました。おもに展覧会活動を通じて形成されたコレクションは、日本近代美術を中心に西洋や近代中国の版画などを含め、日本の公立美術館のなかで有数の質と量を誇っています。
このたび、まことに残念ながら、2016年1月31日、展覧会の最終日をもって「神奈川県近代美術館 鎌倉」の公開を終了し、3月末日をもって神奈川県立近代美術館は「鎌倉館」を閉館することになりました。2016年4月以降の美術館活動は、葉山館と鎌倉別館の二館体制に集約化されます。65年の長きにわたる各方面からのご愛顧に感謝するとともに、今後の活動に向けさらなるご理解とご協力をお願いする次第です。

2015年3月

館長 水沢 勉

〈神奈川県の基本的な考え方〉
鎌倉館は老朽化が顕著になっていますが、国史跡に指定された鶴岡八幡宮境内では、史跡にそぐうもの以外の現状変更が認められず、美術館として改修することが困難なことから、鶴岡八幡宮との借地契約が満了する平成28年3月末で、美術館としての活動は終了することとしております。

風景の風景

2014年4月 神奈川県立近代美術館館長 水沢 勉

旅をしてその土地の博物館や美術館を訪れると思いがけぬ発見に出会い、ときに喜びや慰めをあたえられる。
2011年3月11日の東日本大震災後、岩手県陸前高田市をわたしは二度訪れた。未曾有の規模の津波で破壊されたのはものやひとだけではなく、歴史を積み重ね生みだしてきた、ものとひととが織りなす風景でもある。被災前に一度だけわたしはやってきたことがあるが、そのときの風景の記憶もまた、破壊のあまりの凄絶さに、壊れ、すっかり薄らいでしまった。
復興は復旧ではなく、その土地にあらたにもうひとつの風景を作りだすことであろう。「復興の風景」を含めた「風景」のヴィジョンが、その土地に暮らすひとびとがどれだけ共有できるかが問われる。それは、暮らしてきたひとびとの記憶とセットであり、いまを生きるひとびととさらには未来の生命へと連なっていかなければ、その土地の風景として生成させる、いや、それが苦しみつつ生まれ出ることもありえないであろう。
そう書きながら、あらためて自分の無力さを思い知らされる。
陸前高田を二度目に訪ねた2011年10月に、帰路、土沢の萬鉄五郎記念美術館を立ち寄った。美術館のそばに移築された萬家の土蔵は被災し、壁の一部が剥がれ落ちていた。とはいえ、町のひとたちはこの大惨事にめげることなく、町内各所で「まちかど美術館2011 アート@土澤」が元気いっぱいに開催されていた。会場のひとつである町なかの古い薬局。もう営業はしていなかったが、その壁には、陸前高田出身の画家・畠山三朗(1903-1933)が、昭和初期に描いた、小さな油彩の風景画が一枚飾られていた。その絵には自分がまさに直前にその場所に立っていた、プラットホームの一部を残してすっかりなにもかもが無くなってしまった、陸前高田の駅舎のあった中心街のあたりが、山側の高台から眺めた風景として、心地よいリズムを感じさせる筆触で瑞々しく描かれていた。80年ほど前、昭和初めには水田がそこに広がっていたことをその絵でわたしははじめて知った。
また、去年、岩手県立美術館で、かつて陸前高田市立博物館のそば、その裏手の市民体育文化センター前に設置されていた柳原義達(1910-2004)の立像《岩頭の女》(1978年)が、台座の大きな石とともに津波に押し流され、ブロンズ製の像そのものは両足首のところで切断され、何か所かに裂け目が出来ていたのを修復し、二本のボルトの「義足」が接続されて、再び立っている姿に出会った。
これらの作品はいつの日か陸前高田の町なかで飾られるのであろうか。
いまはだれもその日がいつやってくるかを語ることはできない。しかし、それが展示された風景を思い描くとき、一面の廃墟の広がりなかに小さな灯りがいくつか点っていくようにわたしには感じられる。
わたしたちはいま自然や文化との豊かな関係を失おうとしているのではなかろうか。ミューゼアム(博物館/美術館)という言葉は、ギリシャ語の「ムーサ」に由来する。文芸の女神であり、古代ギリシャの詩人ヘシオドスによれば、ゼウスとムネムシュネーのあいだに生まれた9人の娘たちであるとされている。ギリシャ語では複数形で「ムーサイ」と呼ぶことも多い。
「ムーサ」という音に、母親の名前がこだまするように、まさしく「名残り」が感じられることはとても象徴的であろう。「ムネモシュネー」は、「記憶」を神格化した女神だからである。「記憶」の「記憶」。それらが響きあっていく。その継承がなければ、ミュージアムは誕生しなかったのではなかろうか。
失われたものをすべて取り戻すことはできない。しかし、少なくとも、その「失われた」という事実を記憶のうちに留めることはできる。喪失の「風景」を抱き留める、新しい「風景」。「風景」の「風景」。それらが、さざ波だち、連なっていく。その起点、最初の一石にふさわしいものは、まさしく「ミュージアム」なのではなかろうか。
1951年、敗戦後の荒廃から立ちあがろうというときに、日本に公立の最初の近代美術館として当館が、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内に誕生したことを想起しながら、わたしは、自然と文化がもう一度深くむすびつく可能性、その出発点のことを考えずにはいられない。

葉山館、開館10周年にあたって

2013年7月 神奈川県立近代美術館館長 水沢 勉

当館の三つ目の建物が一色海岸に面した風光明媚な葉山の地に開館したのは、2003年10月11日のことでした。開館のその日は素晴らしい秋晴れに恵まれ、多くひとたちに祝福されました。まるで昨日のように記憶に鮮やかです。それが早いもので、本年(2013年)、10年という節目の年を迎えたことになります。
どのような時代であれ、完全に平和なときというものは存在しなかったにちがいありません。
世界全体を広く見渡せばどこかの地域は戦乱のさなかにあり、人間たちのあいだには、絶え間なく、友人間から国家間にいたるまで、大小のいがみあいが生まれつづけてきたからです。平和と戦争は、時間の概念ではなく、空間の概念である、と現代文明の限界を批判しつづけた偉大な思想家のひとりイヴァン・イリイチ(1926-2002)がかつて指摘したことの意味が、これほどまでに切実に感じられる10年間もあまりなかったのではないでしょうか。「平和な時代があった」ではなく、「平和な場所もあった」といわなければならないのです。
戦乱の惨禍を思えば、その地域以外がどれほど平穏であっても、その渦中にあった当事者たちにとってそれは激動の時代にほかならなかった。平和であることを言い募るのはいつでも権力の側の視点であった。「Pax Romana(ローマの平和)」といい、あるいは「Pax Americana(アメリカの平和)」という、いかにも事大主義的なラテン語表現がまさしくそのことを証明している通りです。平和は地球の片隅にあって弱い立場の人々によっていつでも希求される対象であったのです。
この10年もまた激動の時代でした。
1989年のベルリンの壁崩壊以後、ソビエト連邦の解体を経て、イデオロギー対立の解消は、ほんのしばらくのあいだ、平和共存の新たな可能性を幻想させましたが、2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件は、高度に発達を遂げた資本主義と情報化社会が、格差社会を世界規模でますます助長していることを白日の下に晒しました。ウィーン世紀末の文学者のひとりシュテファン・ツヴァイク(1881-1942)が、ナチに追われ、若い妻とともに、絶望の果てにリオデジャネイロで自殺する以前、1940年に書きあげた回想文学の傑作『昨日の世界』は、ハプスブルク帝国の栄耀と没落をみごとに伝えています。そのなかで第一次世界大戦直前に、だれもが国境も意識することなく、たとえばザルツブルクとミュンヘンのひとたちが少しでも安くておいしいビールやワインを味わうために気軽に国境をおたがいに越えていたことを、懐かしく、しかし喪失の痛みとともに思い起こしています。
わたしたちは通信技術の飛躍的進歩によって瞬時にして、たとえば、ナイジェリアのラゴスのひとと極東の日本で居ながらにして通信できるのに、分断と格差は一方で加速するばかりです。マリ共和国の文化財が軍部クーデターによる混乱のなかで破壊されたことは記憶に新しく、この数年間の最大の心痛む文化的ヴァンダリズムでした。サハラ砂漠に向かって北上していくときに、何度も検問での停止を強いられることは、いま世界がどれほど不自由であるかを物語っています。
美術館は、そんなとき、なぜ必要なのでしょうか。
答えは意外に簡単なのかもしれません。自由に、検問を受けずに(あるいはかいくぐって)、すぐれた造形表現に地域や世代をつないで出会うことのできる場。時間と空間の制約を限りなく越え出る可能性を宿したもの。そのためには持続性が必須条件でしょう。喪失の絶望に負けないために。
鎌倉館、鎌倉別館、そして、葉山館の三館体制で運営をつづけてきた当館の置かれた状況は、不透明で、困難であることも覚悟したうえで、将来を見据えて進んでいきたいと思います。わたしたちのささやかな活動が、つぎの10年、そして、さらに10年と、途切れずにつづいていくように、ご理解とご支援をあらためてお願いする次第です。

美術館は今日もたいへんです。

2012年4月 神奈川県立近代美術館館長 水沢 勉

いまから10年以上前、まだ、葉山の美術館が出来ていなかったころのことです。
わたしは、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内にある神奈川県立近代美術館(いま鎌倉館と呼ばれている建物です)に勤務していました。そのころちょうど開館50周年の節目を迎えました。それを記念して、求龍堂という本屋さんから『小さな箱』という本を学芸スタッフ総出で出版しました。いまもときどき手にとってめくることのある、鎌倉の近代美術館の「こしかたの記」ともいうべき内容の読みやすい本です。
わたしはまだ40歳代でしたから、若気が残っていたのでしょう、本の帯のコピーをちょっと調子に乗ってこう書きました。
「美術館は今日もたいへんだア!! 正式名称『神奈川県立近代美術館』。でも、みんなは愛情を込めて『鎌倉近美』としか呼ばない。そんな美術館が、鎌倉鶴岡八幡宮の境内にある。日本で最初の本格的な近代美術館。設計は天才的な建築家、坂倉準三。しかし、戦後復興のさなかに建てられた美術館の現実はキビシイ。ふりかかるいくつもの難題。館内に響く名物館長の怒号。奔走する館員たち。パティオ(中庭)を見上げれば夏の青空が目に痛い。イサム・ノグチの《こけし》に降り積む雪がやさしい。戦後の混乱から立ちあがった、額に汗する、日本最初の近代美術館の奮戦記。」
あれから10年たった去年は、鎌倉近美の開館60周年の年であったのです。ひさしぶりに開館当初の写真を見つけて眺めたりしました。1951年10月頃、竣工直前に撮影されたものです。まだ周囲の外溝工事が終わっていないことが脇の方に土砂が積まれていることから分かります。

鎌倉館 竣工直前の1951年10月頃に撮影

神奈川県立近代美術館 鎌倉館 竣工直前の1951年10月頃に撮影 撮影:村沢文雄

なんという清楚で美しい建物でしょう。当時を知っている先輩学芸員のひとりが、開館まもないころ、はじめて鎌倉の美術館に来たとき、まぶしくてまぶしくてまっすぐに見ることができなかった、といっていたことを思い出します。これほどの建築が、戦後の荒廃、そして、占領下という時代に生まれたことを思うと、その奇跡に涙腺がついつい緩みそうになります。

葉山館 竣工から5年後の2008年2月に撮影

神奈川県立近代美術館 葉山館 竣工から5年後の2008年2月に撮影 撮影:上野則宏

2003年に葉山の一色海岸のそばに葉山館が完成しました。ここの環境もすばらしい。写真は、葉山の空気が一番透明になる2月に相模湾の日没を中庭越しに遠望しているものです。葉山は鎌倉と違い半島の気象であることに、わたし自身、2000年から葉山の堀内に暮らすようになり日々、実感しています。この時期は風が強く、陽射しは穏やかなのに、体感温度はかなり低い。寒いのです。鎌倉も冷えますが、どこか湿潤なところがあり、風はあまり吹かず、陽だまりがあちこちにあります。

内藤礼 《恩寵》 2009(1999-)年

内藤礼 《恩寵》 2009(1999-)年 鎌倉館での展示を2010年3月に撮影

この写真は、鎌倉での内藤礼展「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」(2009-2010年)の会期のおわり頃にわたしが撮影したものです。鎌倉の「陽だまり」が内藤さんの吊るされたビーズの縄跳びのようなフォルムを明るく浮かび上がらせています。この光が溜まっている感じは、同じ3月頃の葉山の一色海岸には求めようがありません。葉山では、空の底が抜けているといえばよいでしょうか。
この写真を撮影してからほぼ一年後に「3.11」がやってきました。さいわい美術館は、ひとも、作品も、建物も被害はありませんでした。ただ、当初の計画には変更を余儀なくされました。被災地に比べれば、まったく軽微なものです。でも、こうした「喪失」もまた、いったい自分にとってなにがほんとうにたいせつなにかを問いかけるきっかけになりました。でも、突然、なにかが根こそぎなくなったような感覚に襲われ、ときどき思考回路が停止してしまいます。それを本能的に補おうとするのでしょうか、日常は、ひどく忙しく、せわしなくしていないと、かえって落ちつかない日々が続きました。
そう、美術館は今日もたいへんです。とはいえ、バックヤードはどんなに繁忙を極めていても、美術館の会場はいつでも静かに、集中して作品鑑賞に沈潜できるように、わたしたちは全力を注いでいます。ぜひわたしたちの鎌倉と葉山の対照的な美術館を訪ねてきてください。
2012年は、当館の原点を確認するために、写真家・石元泰博さんの1950年代の代表作の連作「桂」を鎌倉館で、日本近代美術の基本の基本ともいうべき洋画家・須田國太郎展を葉山館で、そして、葉山で前年度に開催した村山知義展を受けるかたちで、息子さんの児童文学者・村山亜土さんのテキストに寄せた作品を中心に、染色作家・柚木沙弥郎の新作を含む作品展を鎌倉別館で開催いたします。
その後も、葉山館では、昭和前期を代表する洋画家のひとり、松本竣介の生誕100年を記念する大規模な回顧展、そして明治初期洋画の傑作である「二枚の西周(にしあまね)像」をめぐる近代洋画展を開きます。鎌倉館では、まさしくその誕生の年に結成された「実験工房」の展覧会を開催します。鎌倉別館では、柚木沙弥郎展に続けて、「古都鎌倉」という視点で選んだ所蔵品展、夭逝した特異な画家・小野元衛の全貌を初めて紹介する回顧展、そして、鎌倉館での実験工房展に合わせて当館所蔵の戦後期の優れた作品を紹介する「戦後の出発」展など、わたしたちの美術館活動の原点を見つめ直します。また、所蔵品からは、気谷誠氏が収集したユニークな版画コレクションを「鯰絵とボードレール」と題して鎌倉館で紹介し、秋にはシャガールとマチスの傑作版画を中心に、フランス近代美術の精華を鎌倉館で展示いたします。現代的な視点も忘れてはいません。大阪の国立民族学博物館が所蔵するアフリカのビーズを世界で初めてまとめて公開する葉山館での「ビーズ イン アフリカ」は、その現在の生活にまで脈々と生きるビーズの生命と現代性にこそ注目しています。また、葉山館全館をひとまとまりの作品として空間化する桑山忠明は、現在、日本を代表する世界的なアーティストのひとりです。鎌倉館での江口週展も、戦後の木彫が到達した表現の高みを改めて最新作も含めてわたしたちに確認させてくれるにちがいありません。
どうぞご期待ください。

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